
ニワトリの卵を温めると、21日ほどでヒヨコがかえります。殻の中では、その3週間で、一羽の体がゼロから組み上がっていきます。では、いちばん最初に動き出すのは、体のどこでしょうか。
答えは、心臓です。温めはじめてから2日ほど、まだ翼も脚も、体の形さえないうちに、心臓は動きはじめます。この事実に人類が最初に気づいたのは、2300年前のことでした。
2300年前、卵を割りつづけた哲学者
紀元前4世紀のギリシャに、アリストテレスという哲学者がいました。彼は、温めているニワトリの卵を毎日ひとつずつ割り、中で何が起きているかを、日を追って記録しました。顕微鏡はまだありません。肉眼で、卵の中をのぞいたのです。三日目。卵白の中に、赤い小さな点が現れます。その点は、ひとりでに動いていました。アリストテレスは、その点が「命を宿したかのように」跳ね、動くようすを書き残しています。体らしい形はまだ何もなく、その一点だけが動いていた。のちに、これが心臓の始まりだとわかります。
彼はここから、ひとつの結論にたどり着きます。生き物は、初めから小さな完成形が入っていて、それがふくらむのではない。単純なものから、順に形づくられていく。生き物がどう組み上がるのか——この問いは、発生学という分野の出発点になり、その後2000年ちかく読み継がれていきました。
はじめに動くのは、心臓
現代の研究は、アリストテレスが見た瞬間を、時間の単位まで確かめています。ニワトリの卵を温めはじめてから、心臓が動きはじめるのは、およそ33時間後。丸一日と少しです。
このとき、卵の中では、体はまだほとんどできていません。翼も脚もなく、心臓さえ、私たちの知る形ではなく、ただの細い管です。その管が、一定のリズムで縮みはじめます。血管も、めぐる血も、まだこれからです。
体をつくる材料がそろうより先に、心臓だけが動き出す。だから心臓は、「体の中で最初にはたらく器官」と呼ばれています。
形が先か、動きが先か
ふつう、物は形ができてから動きます。時計は、組み立ててからでないと針が回りません。ところが心臓は、その順番が逆でした。
まだ縮んでもいない、管になる前の心臓。その中では、規則正しい電気の信号が、すでに時を刻んでいました。動きよりも先に、動きの合図のほうが始まっていたのです。
問題は、それをどうやって確かめるかでした。この時期の心臓は小さすぎて、しかもまだ動いていません。電極を刺して電気を測る、という普通のやり方が使えないのです。
この壁を破ったのが、東京医科歯科大学の神野耕太郎たちでした。神野は、アメリカのエール大学で、ある新しい技術を学んでいました。電気の状態に応じて光り方が変わる、特殊な色素を使う方法です。帰国した彼らは、その色素で心臓を染め、100個の受光素子を並べた自作の装置で、かすかな光の変化を心臓のあちこちから一度に読みとりました。
1981年。彼らは、まだ拍動していない心臓が、最初の収縮が起きる直前には、すでに規則正しいリズムを刻んでいることを、世界で初めて記録しました。この成果は、科学誌『ネイチャー』に載りました。

電気のリズムがまず立ち上がり、そのあとで筋肉が縮み、やがて血がめぐりだす。心臓では、はたらきのほうが、形より先に始まっていました。
やがて血管が体と黄身の上に広がり、心臓はその中へ血を送りはじめます。温めはじめて5〜7日ほどたった卵を光にかざすと、その血管の網が、殻ごしに赤く透けて見えます。中心の暗い点が、育っていく胚です。

心臓が動き出すまで
- まず、電気の信号:動く前の管のような心臓に、規則正しいリズムが生まれる
- およそ33時間:心臓が縮みはじめる(最初の拍動)
- そのあと:血がめぐり、酸素と栄養が体に運ばれる
まとめ
最初に動き出すのは心臓で、その動きは、心臓が形になるより先に始まっています。命の始まりは、形ができることではなく、リズムが生まれることでした。アリストテレスが肉眼で見た跳ねる点も、現代の研究が光でとらえた最初の電気も、どちらも命の最初のリズムをとらえたものです。
出典情報
- Andrés-Delgado, L. & Mercader, N.(2016)Biochimica et Biophysica Acta——鶏胚の初期心臓発生の総説。心臓が「発生中の胚で最初に機能する器官(the first functioning organ)」であること、拍動が始まる前の心臓ですでに自発的な電気活動が生じることをまとめている。
- Gagliardi, S. ほか(2024)Heliyon(オープンアクセス)——ニワトリ胚で心臓が「最初にはたらきだす器官」であり、孵卵開始からおよそ33時間で拍動を始めること。
- Kamino, K., Hirota, A. & Fujii, S.(1981)「Localization of pacemaking activity in early embryonic heart monitored using voltage-sensitive dye」Nature 290, 595——電位感受性色素と多数の受光素子による光学記録で、まだ拍動していない(最初の収縮の直前の)鶏胚心臓に、すでに規則正しい電気活動があることを初めて記録した。神野耕太郎らは当時、東京医科歯科大学で、米エール大学のL. B. Cohenのもとで学んだ光学記録法を発展させた。
- Hamburger, V. & Hamilton, H. L.(1951)Journal of Morphology——産卵から孵化までを形態で区切る、ニワトリ胚発生の標準的な段階表(HH stages)。本文の「およそ33時間」はこの段階表(HH10前後)に基づく。
- アリストテレス『動物誌』第6巻——孵卵3日目の卵の卵白に、脈打つ「血の一点」が現れると記した、現存する最古の体系的な発生の観察。単純なものから順に形づくられるとする後成説の出発点。
本文中の〔孵卵約33時間で拍動・心臓が最初にはたらく器官・電気の合図が動きに先立つ・その光学記録〕は上記の研究に基づきます。検卵(卵を光にかざして中を見る)で網の目状の血管が見えるのは、孵卵およそ5〜7日目のようすです。